上村一夫のスカーフ

お知らせ

どうも、ichiru のササキタクマです。

3月9日〜4月14日まで ichiru 店内で開催された「ichiruと上村一夫~港街編~」と銘打った原画展示イベントに合わせて作られた上村一夫公式新作グッズのシルクスカーフを、引き続き ichiru でも販売させていただくこととなりました。

その美しい佇まいを目の当たりにして記憶に残っている方も多くいるとは思いますが、改めてご紹介していきたいと思います。

美しいモチーフをアレンジしたシルクスカーフ

こちらの美しい上村一夫のシルクスカーフは、1980年に資生堂「素肌美人」の広告に使用されたものをアレンジした柄です。

上村一夫公式サイトより。資生堂 素肌美人 1979〜1980年

そのポスターの美しさは言葉になりません。

そのモチーフをアレンジしてつくられたスカーフ。

上村一夫の絵とシルク素材が混じり合って、もはや元のポスターとの比較対象で語れるものでもない程の佇まいをまとった存在感です。。

そして、なんと、上村一夫公式サイトのショップにて、このスカーフの品名が ichiru と命名されています。

私たち ichiru の店名が上村グッズと並んでしまった以上、これから今まで以上に益々前に向かってお店の運営をしていかなければと、気持ちが引き締まります。

上村一夫公式サイトの通販と、この ichiru ブログのホームからオンラインショップへのリンクもありますので、ファッションとしてはもちろん、インテリア、絵として飾る、など様々な楽しみ方で上村一夫の絵を堪能していただきたいです。

現在、直接手に触れることができるのは ichiru 店内のみとなりますので、気になる方はぜひ遊びにいらしてくださいませ。

サイズ

上村スカーフの大きさは70×70です。

大判と言われるスカーフの定番サイズは88×88ですが、大判に見劣りしない迫力のあるサイズとなっています。

話は逸れますが、53×53のバンダナと同じサイズのものを小判と言うそうです。

上村スカーフは中判という感じでしょうか。

もうひとつついでに話を逸らしてみると、スカーフとストールの違いって何?というよくある質問があります。ざっくり、スカーフは正方形、ストールは幅の広い長方形と覚えておけばOKです。

スカーフにもナローという細長い形のものもありますが、細いのでストールではないという感じです。

端の処理

スカーフの縫製にも様々あります。

縫製というものは私たちの生活の身近にありながら、普段、気にも留めない深い世界が広がっています。

私たちは、知らず知らずのうちに芸術品を身に纏っていたりするのです。

今回はそこまでディープに潜らずに、簡単に解説していきたいと思います。

  • 手巻き
  • 千鳥巻き
  • 三つ巻き
  • メロウ巻き

この4つを押さえておけば、もはやスカーフ端処理マニアです。

今回の上村スカーフは、メロウ巻きというものです。

言葉で説明すると訳が分からなくなりますので、簡単にいってしまいますが、ロックミシンで処理したものより格上という感じです。

見た目ではあまり分からないのですが、特殊な縫製です。

スカーフといったら手巻きという縫製が最高級とされていますが、日本には現在手巻きができる職人さんが数人しかいないそうです。

端を丸めて、一針一針かがっていくのが手巻きです。

88×88の布を一針一針、繊細で縫いにくいシルク素材を一針一針‥‥‥‥

再び話を逸らしますが、エルメスの手巻き職人さんは40分で完成させるそうです。

他の縫製処理が気になりましたら、ぜひ調べてみてくださいね。

MADE IN JAPAN のスカーフ

上村スカーフは日本製です。

ichiru が取り扱う古着も日本製です。

皆さんの頭の中には日本製=良いものというイメージがあると思います。

私もそうイメージしています。

日本製をメインで取り扱う洋服屋として、そのイメージはどこからきているのかをこれまでたくさん調べると共に、じぶんなりに考えてもきました。

話し出すと一つの記事としても長すぎるくらいのものになってしまいますが、シルクと日本の関係についてだけ、少し書いてみたいと思います。

きっとそれが日本製のイメージの良さがどこからきているのかを探ることにもなるはずですし、上村スカーフの魅力の一端をお伝えする事にも繋がっているはずです。

シルクと日本

日本製のシルクスカーフといって、まず思い出されるのは横浜です。

みんな知ってるでしょ、というノリで言いましたが、きっと初めて聞いたという人の方が多いでしょう。実は横浜、シルクがすごかったのです。

山下公園のあたりには、シルクセンターという誰しも聞いた事のある建物がありますが、横浜シルクの凄さの名残です。

でも、〇〇の産地とか、〇〇にせっかく来たならこの料理を食べなきゃとか、私は覚えられません。

食べ物ならまだしも、繊維の産地なんて普通に生活していたら、大学に行くためだけに勉強する数学くらい暮らしには縁の無いものだ、と言えそうです。

覚えるためではなく、物語として産地の話を紐解いていけたらと思います。

なぜ横浜が産地となったのか?

物語は鎖国していた頃の時代から始まります。

1859年の横浜開港と共に、生糸の輸出が盛んになったそうです。

元々、関東のあたりでは生糸の生産が盛んでした。桐生などが有名ですね。

そういった産地が横浜から近かったことが、輸出が盛り上がる良いきっかけとなりました。

ちなみに、上村の生まれ故郷・横須賀にペリーが来航したのは1853年です。

横浜開港後、輸出が盛んになって以降、次第にシルクが産業になっていきます。

工場制手工業というやつです。マニュファクチュアって学校で習った覚えがありますね。

開港前にも関東では、これもまた桐生ですが、絹織物業が始まっていたとされています。

そのことも関係しているのでしょう、開港後、「図案」・「型」・「染め」・「巻き(縫製)」といったスカーフの各製造工程を取りまとめる産地問屋の多くが横浜に集中していき、横浜での産業へと発展していきます。

最盛期の1976年には、スカーフの国内生産量の90%、世界生産量の50%を横浜が占めていた、と記録されていて驚きました。

その中心となっていたのは、加太八兵衛かぶとはちべえという呉服商だった人物だそうです。

加太が外国人相手に絹織物産業を開業しました。

この事業を椎野正兵衛という人物に譲り、最盛期の驚異的な生産量へと向かっていきます。

後の横浜スカーフへと続いていく物語、調べていくと、朝ドラのようなネタでした。

日本製の質の良さをイメージさせる源泉はなんなのか?という話の文脈で進んでいることを忘れてしまいそうになりますね。

横浜シルクの隆盛と衰退

横浜でシルク産業がバズるきっかけとなったのが、ウィーン万博です。

新一万円札の渋沢栄一の名著「論語と算盤」に、渋沢もウィーン万博に行っていたと記されています。

渋沢は日本経済の父と言われ、みんなが知ってるあの企業もあの企業もあの企業もあの企業も開業したり関わったりした人物です。

渋沢や椎野がウィーン万博に行き、日本に持ち帰ってきたものが後に大いにバズることとなったのは、時代背景というタイミングもあったのでしょうが、然るべきところにしかるべき人がいたという運も強く影響したのでしょう。

おおきく話が逸れてしまいました。
横浜に戻りましょう。

ウィーン帰国からシルク産業の隆盛へ

椎野がウィーンでの見聞を活かし製織が改善され、羽二重手拭はぶたえてぬぐい寝衣しんいの輸出が盛り上がってきたとされています。これが1870年台の頃です。

羽二重というのは織り方の名称で、羽二重で織られた絹は着物の裏地として最高級とされています。

薄く、滑らかで、美しく光沢するのだとか。
まさにシルクそのものといった感じですね。

「絹の良さは羽二重に始まり羽二重に終わる」と言われているそうですが、素人の私からしたら終わらなくてもいいだろというのが正直なところです。

この羽二重手拭、どういうものなのかは分からないのですが、後にハンカチに進化して、これがフランスで好評を呼んだそうです。

これは椎野の仕事ではなく、フランス人商人がフランスから呼び寄せた捺染なっせんの技術者に羽二重を染めさせて始まったようです。

個人的にはこういったところにものすごく面白さを感じます。

つまり、日本と海外のブレンドをどんどんアレンジしていくという日本の文化。

謙虚さや素直さ、さらにはしたたかさというのは、ある意味日本の伝統芸のようなものかもしれません。

羽二重の話でした。

やわらかく美しい光沢の羽二重が綺麗に染色されていたら、今でも人気が出そうです。

山下町に外国商館が集まっていた事が強く関係して、染色工場などが次々と開業して、断続的に外国商館からの発注を受け、絹ハンカチが横浜の地場産業として成り立っていきます。

染めに欠かせない水場が豊富な自然環境が整っていたことも、横浜が産地となっていった大きな要因のひとつです。とにかく川が多いのです。現在の大岡川は桜がとても綺麗ですね。

と、これが1890年代のことです。

話が前後しますが、1870年代後半には羽二重に付加価値をつけるために、ハンカチに加工して輸出していた、との記録もありました。

その10年後には、そのハンカチのふちをかがる内職が主婦の仕事となっています。

しかもその報酬はかなり高額だったとのことで、とってもはたらきがいがあったでしょうね。
成長産業、万歳、です。

で、その仕事に従事していた女性は「ハンカチ女」と呼ばれていて、休日にはハンカチを首に巻いて芝居を見に行く文化があったそうです。

まさかの真知子巻きよりも先、主婦首巻きです。

スカーフ誕生

度重なる脱線話も大変面白いのですが、再び横浜に戻りましょう。

ハンカチは最初無地だったのですが、染めたものや絵柄入りのものが作られるようになり、輸出量も上がっていきます。これが先ほど書いたフランス商人きっかけのお話です。

その後、生産量や売上のピークを迎えますが、関東大震災で甚大な被害を受けます。

被害を免れた絹業者の多くは神戸へと拠を移し、外国商館も西へと移っていきました。

しかし、私では想像のできないような努力と行動によって、昭和に入る前年の1924年に工場数などは震災前を上回るほどの復興を遂げたそうです。

さて、ここでいよいよ日本のスカーフが誕生します。

記録によると、昭和9年にイギリス商館にハンカチの柄をサイズと共に拡大した見本を売り込んだところ大量の注文が入り、イギリスへの輸出が始まり、横浜の特産品となっていくきっかけとなります。

西暦でいうと1935年。

これが、日本がスカーフとして売り出した始まりであると共に、横浜スカーフというものを世界に広める始まりでもありました。

現在のような形のスカーフらしきものが世界で誕生したのは1900年ごろだと考えられています。

言語として「スカーフ」が使われたのは1500年代とされていますが、形は別物だったようです。

ネクタイの起源と言われるクラバットの一種として流行して、だんだんと現在のスカーフの形になっていったようです。

クラバットというのは、リヴァイ兵長がしているような形状のものです。

隆盛と衰退

輸出は増加し、1955年ごろ、ディオールやサンローランなどが横浜スカーフの品質に興味を持ち、委託生産が行われるようになりました。

ここからさらに輸出は加速して、70年代半ばにピークを迎えますが、国内の不況とファッションのカジュアル化が大きく影響して、需要が下がりはじめます。

1993年にはディオールとの契約が終了し、2015年にはバーバリーとの契約も終了して、国外のブランドから横浜スカーフが姿を消すこととなります。

ちなみに、現代においてスカーフの代名詞としてイメージされるエルメスのカレは、1937年に誕生しています。

日本のスカーフ誕生の方が早かった、というのも面白いものです。

MADE IN JAPANの上村スカーフ

過去を振り返ることで、今私たちが持っているイメージの源泉を少し知ったような気になりました。

改めて上村スカーフを見ていきたいと思います。

今回、上村グッズとしてつくられたものは、品質の高い MADE IN JAPAN のシルクスカーフです。

時代と共に需要のバランスは変わったけれど、文化や質が変わったわけではありません。

日本の絹、スカーフについて調べてみて、着物からスカーフへと形を変えて、日本の文化が繋がっていったのだと感じました。

国産スカーフが衰退を始めた70年代、その頃に活躍した漫画家の絵がプリントされた日本製のシルクスカーフが、 MADE IN JAPAN の古着屋に並ぶというパラレルワールド。ぜひ楽しんでいただきたいです。

結び方や着用例は星の数ほどありますが、気軽にじぶんに合った好きな方法で身につけることが1番です。

夏であればエアコンで冷えてしまった時に肩にかけるだけでも体温調整ができますし、美しい絵柄で人目を釘付けにできますのでおすすめです。

お手入れの方法は、以前書いたこちらを確認して、お好みに合った方法で管理して、長く使っていただきたいです。

展示を絵と共に振り返った動画もよろしければご覧くださいませ。

ぜひ、手にとって実物を確認できる ichiru にも遊びに来てくださいませ。お待ちしております。

ではまた。

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