こんにちは。ササキタクマです。わたしの簡単なプロフィールはこちらです。よろしければご覧ください。
よくある質問シリーズです。
古着ってなんですか?にお答えしようと思います。
古着を扱うことをはじめて長く経ちますが「古着ってなに?」と聞かれてもうまく答えられません。しかし、そもそもそんな質問をされた事がありません。よくある質問シリーズなのに。
質問はされませんが、近年、古着という言葉の意味がかなり複雑になってきている気がしたので、書いてみようと思いました。
質問されないけど、みんな大なり小なり疑問がありそうだなと思ったのです。
そもそも古着って?
わたしが古着に興味を持ちはじめたのは20代前半、2000年代の初頭でした。
もうあんまり覚えていません。
歳をひとつ重ねるスピードを追い越すように世の中も変化しているように、古着というちいさな世界も大きく変化してきました。
江戸の頃からあったと言われる古着屋ですが、その頃は個人と個人でのやり取りが主流だったようです。メルカリのリアル版という感じでしょうか。
江戸から明治へ時代が移る頃、世界は産業革命の時。
物が急激に増える流れの中、中古繊維も例外なく増えていき産業として成長していくこととなります。
個人で古着を売っていた、商いとも言えないくらいの小さなものが、次第にリサイクル販売業となっていく流れがここからはじまっていくことになりました。
鎖国から開国へ、C to C から B to B 、B to C へ、そして再び C to C の流通が活発になっています。
ichiru も MADE IN JAPAN を専門としてセレクトしているので、鎖国状態とも言えそうです。
世の中の流れと同じくして、一周まわったというようなことなのでしょうか。
また新しい流れが始まっているということも含めて、一周回ったという言葉で説明したくなります。
古着という言葉の多様化
繊維を集積してく側が成長していくと、その場所には古着を探している者が自然と集まってきます。
私のような古着屋など、です。
江戸の頃の古着とは、着古した着物を指す言葉でしたが、洋服の種類が増えるとともに古着という言葉の中に意味が重なり合って複雑になって、とても分かりにくい、イメージしにくい感じになってきました。
それがどういう事なのか、少しずつ迫っていきたいと思います。
ちょっと雑ですが、古着を大きく2つに分てみましょう。
皆さんが頭の中で想像できる古着、これをレギュラーとして、それよりも価値のあるものをヴィンテージとします。
というよりされています。古着という小さな世界の中にもヒエラルキーがあるのです。
時間的価値と希少性が、値を上げたり、喜ばれたりします。
レギュラーとヴィンテージの中にも枝分かれして沢山のカテゴリーがあります。
その為、古着屋も専門を深め、個性を競い合っているという状態です。
こういう需要と供給の流れが、古着というものを「言葉として」捉えにくくしているのだと感じます。
何を隠そう、私も古着をじぶんで扱うまで何も分かっていませんでした。
パーカを着ていたら古着が好きな人だと思っていたし、エスニックのお店のことも古着屋だと思っていたほどの素人っぷりです。
今の若い人たちはたくさん知識を持っていて、当時の私のような感じではないと思います。
だからこそ知れば知るほど、古着というひと単語だけでは言い表せないもどかしさを感じてしまっているのではないか、と思います。
だから、古着って何?!
ここまでのことを一旦整理しておきましょう。
あくまでも日本国内に限った古着の話ではあります。
江戸の頃は着物や野良着を指していたものが、産業革命により物が増え、繊維も増え、中古繊維業も産業化しました。着るものが増えると共に、古着の中にもカテゴリーが増えて、言葉として捉えにくい複雑なものになってきた、という感じです。
1982年うまれのわたしが古着を認識した時は、90年代。
古着=アメカジみたいなシンプルな構図でした。
では2023年、古着を簡潔にイコールで結んでほしいと言われると、できないような気もします。
そんな中、ichiru の持っている答えはとてもシンプルです。
古着だと思ったら古着。
それでいいじゃないかと思うのです。
何も作り出していない古着屋というものが、複雑な概念だけを生み出しているという悲しき状況です。
なんでもいいじゃん。
古着の世界に足を踏み入れた時に感じたことがあります。
「ガチの古いものだけが古着でそれ以外は無価値」という雰囲気です。
レギュラーのような数が集まりやすいアイテムは、どうでもいいという感じでした。
販売価格も洋服としての良し悪しに関わらず二束三文で、好んで着ていても、馬鹿にされるほどでした。
今では当時レギュラーと言われていたアイテムたちも数が集まらなくなり、宝物のように扱われていたりします。
古着とは、時間に価値をつけたもの
前述した通り、古着の世界の価値基準は、時間と希少性です。
例えば、このブランドのこのアイテムのこの年代のものは生産数が少ない、といった感じです。
まるで高すぎて飲めないウイスキーのように、クオリティやデザインの良さが関係なくなる事もあったりします。
00年代以降、投機としての市場が強くなり、さらにそういった世界観が一部でとんがっていきます。
若い人が「古着は高い」というイメージを持っているのは、投機としての市場の盛り上がりが一役かっているとも言えそうです。
その流れなのかどうかは分かりませんが、ブランドも、古着化しているように感じます。
新しく作り出されたものが古着的な手法を取られて販売されているのを見かける事が増えました。
簡単にいうと、希少性を作り出す、という感じです。
改めて大切だと思うこと
ichiru が古着屋として大切にしているのは、幻影のような言葉ではなく、洋服から溢れ出る価値です。
価格が価値をリードするという状態に惑わされてしまうと、たくさんの事を見失ってしまいます。
そのうちのひとつに、そのモノをつくった人への敬意がなくなってしまっているのでは?と感じることがあります。つくった人の仕事を無駄に、無かったことにしている気がしてしまいます。
概念に引き摺られてしまって、ひときわ大きなものを見失ってしまっているのではないでしょうか。
価値が価格をリードするのは市場として正常であり、常にそうあってもらいたいのですが、そうはならない世界です。
そうではない古着の面白さ
さて、古着が面白いのは、ここからです。
古着には、一般的な価値基準では評価されにくいものが、たくさんあります。
変な柄とか、そういうものです。
レアなものというのも、古着の持っている面白い個性のひとつですが、「なんだこれは?!」というものこそが古着の全体的な価値を決めているのではないかと思っています。
私自身、予測できないこと、決まりきっていない事が大好きです。
いつでも「なんだこれは?!」と思わせてくれた古着の世界がとても魅力的でした。
違った言葉で言い換えると、じぶんで価値をつけられる余白があるとも言えるのだと思います。
それはとても面白い事です。
そうやって考えてみると「古着は時間に価値がついたもの」ということが、もう少し深い意味を持ちます。
価格ではない価値を自分なりに見つけて認めていけるということは、それは過去の人への敬意であると同時に、洋服を介してのコミュニケーションがうまれている、と私は思うのです。
それは言葉でもなく意味でもない、想いと想いのコミュニケーションです。
一度は捨てられてしまった洋服に再び価値を持たせて、この先、大切に着ていく過程で、つくった人の想いとたくさん交流していくのが、古着の楽しみだと感じています。
まとめ
古着という言葉が分かりにくくなってしまった過程をまとめてみましょう。
- 着物の時代のリサイクル品とは違う意味をもつようになる。
- 以前は主にアメカジのアイテムを古着と捉えていたが複雑化。
- ヴィンテージ加工のクオリティも上がり一般の人には古着と新品の区別がつかない。
ここまでお話ししてきたことをまとめると、この通り短くなりました。ここまで読んでくれた人たちの気持ちを踏み躙るような暴挙です。
しかし、さらなる暴挙となるフレーズがあります。
それをもってして、私はこの記事から逃げ出したいと思います。
じぶんが古着と思ったらそれが古着。そして変なものはだいたい古着。
ではまた。
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