2019年12月12日に、ichiru が開店しました。2024年をもって5周年、そして12月12日をもって6年目に突入しました。ありがとうございます。ご来店して、お買い物までしてくださる方がいてくれるお陰で、なんとか「5」という節目にたどり着きました。
三崎の、その中でも簡単に人がたどり着く事ができな様な立地にお店を構えました。
人が来るかどうかという事を考えるよりも先に、陽当たりが良くて穏やかで良い景色があり、気軽に行けるおいしいご飯屋さんが近所にある場所を探しました。
それはきっとichiru にきてくれる事になる人にとっても良い条件になるし、人が足を運びたくなる理由にそれ以上のことが思いつきませんでした。そして、すごくぴったりの場所に出会えました。
振り向けば海があり、おいしい食べ物も沢山ある穏やかな港街。
場所にポテンシャルがあれば、来店するかしないかは全てお店の魅力如何です。つまり私たちの場合は洋服です。これは70’sと80’sの MADE IN JAPAN の仕事がクオリティとなって担保されているので自信を持っていました。
そして洋服を置く空間をどう作るかは物件次第で決まります。力の及ばぬところは考えても仕方がないと思っていまいたが、天井の高さは絶対に必要だと考えていました。
ichiru に入ってすぐ目に着くのは大きな和紙の照明で、イサムノグチのAKARI 100D というものです。直径100cmの巨大な照明を吊るすには高さが必要で、AKARI 100D は空間に欠かせないものでした。
イサムノグチはアメリカ人の母と日本人の父との間に生まれた日系アメリカ人です。
イサムノグチはアメリカで教育を受け、彫刻家としてキャリアをスタートさせました。両国の文化を意識し、その影響が作品に深く根付いています。代表作のAKARIは光の彫刻と言われ、行灯や提灯の技術を機能的で現代的なデザインへと再解釈していて、ヴィンテージのMADE IN JAPAN を現代の新しいものとして価値を付けていこうとしている ichiru と波長が合う気がしましたので、アイコンとして共に歩んでいきたいと考えていました。
ただそれだけの事しか決めていませんでした。
機嫌良くその場所に立って、それを見た機嫌の良い人が立ち寄ってくれたら最高だろうな、と、ほんとうにただそれだけの気持ちで始まりました。
聞こえは良いですが、何か考えた方がいいぞと、大抵の人は考える様な状況だったと思います。
6年目に入り、少しずつ来てくれる人が増えてきた事に感謝の気持ちを綴りながらも、これまでの ichiru の足跡を振り返り、それがそのまま感謝の手紙のようになったらいいなと思って書いています。
この記事を読んでくれている事にも、感謝です。
何も無い。
比喩とか、物語に相応しい始まりの演出とか、ほんとうは格好つけて書いてみたいのですが、文字の通りに私には何もありませんでした。知人も、空間を演出するものも、時間もお金も。
店舗となる場所はスケルトンの状態でした。
手がつけられていない使いやすさと共に、手間をかけなければいけない時間とコストが、倒れる壁のように押し迫ってくるかのような迫力を感じました。その迫力だけが、何も無い空間にただひとつあるものとして存在していたことをよく覚えています。
壁面に貼るベニヤすらも予算的に節約できないかと考えるほどで、柱に釘を打ち付け、釘と釘の間を糸でぐるぐるにして渡して糸の壁を作ったりもしました。それはそれで面白い感じでしたが、とても大変で諦めました。
長いようで短いような6年、大変だったというより楽しかったので、細かいところまで結構覚えています。ただ、それをこの場で話し出すと読むのが大変になる事うけあいなので、所々抜き出して進めていきたいと思います。
必要なものを考える
洋服屋として必要なものは何かを考えました。ichiru を始める前に高円寺で営んでいた vivid というお店で使っていた物は、ほぼ何もありませんでした。
洋服をかけるラックは1台だけありましたが、もう少し必要です。2台追加しようと思いました。ハンガーは少しだけ残していたので、大丈夫そうでした。
鏡もありませんでした。大きくて感じのいいものを探さなくてはいけません。その1台を効果的にどこに置けばいいのかを考えていたら、気がつきました。試着室に置けばいいのに試着室が無いことに。
ラック2台、鏡1枚、そして試着室。レジカウンターも必要です。全ての洋服をアイロン掛けしますので、大きめの台のような物にしたら脚と天板だけでコストも抑えられそうだなと考えました。
とにかくコストを抑えたいモンスターです。
音楽を鳴らすスピーカーは手持ちのもので大丈夫。殺風景なので vivid で使っていた日本製のヴィンテージソファーもおいたほうが良さそうです。ソファーの手をかけるところのデザインが、イサムノグチが作ったテーブルのものと似ていて、気に入っています。
ディスプレイ用のマネキンも大事です。お店が無く、次に出来る保証もないのに、1867年に創業したフランスはパリ製の高級トルソ、ストックマンのものを購入していたので安心です。日本製のものではありませんが、とても良いトルソです。
試着室をつくる
あとは試着室があればお店の形ができます。必要最低限の、と前置きをおけば。
元の計画では試着室を部屋のようにしっかり作ろうと考えていましたが、予算の問題でオープン時には作ることができないと判断しました。
それに加え、計画通りに試着室を作ると、店全体を使うことになります。私ひとりで最初から全面積を使ってオープンしてしまうと、商品が出しきれないという問題もありました。
ストックの中からその時の雰囲気で店に出す洋服をセレクトして、洗濯をして、改めて検品をしながらアイロンをかけていきます。文字にすると大した作業では無い様に感じますが、土日の時間の中で営業しながら作業をこなしていくのは結構大変です。
6年を迎えた今でこそ、全面積+ひみつの小部屋を洋服で埋めることができていますが、完璧とは言えません。入荷作業が遅れてその時の季節感を全力で楽しんでいただくことができない事もあるのではないかと思う事もあります。
予算と面積の許す範囲の中で、最小限のスタートをすることになりました。
高円寺時代、内装は全て自分でやっていました。その時の反省で、全てを自分でやらないと決めていました。
大きなところは任せられる人にやっていただきたいと思っていました。気になった人にいろいろ会ったりしてはいましたが、個人的な相性が良い人がいないという感じが続きました。
大工さんとの出会い。
違う機会に詳しく書きたいと思っているHIRO建築という大工さんが、ichiru のあれこれをやってくれています。三崎のお店だとMPさんもHIRO建築のお仕事です。たまたまなのですが、 ichiru の隣家もHIRO建築の仕事で、景観が揃っているような感じになっています。
いい人との出会いがなく、諦めかけていたところ、三浦市が地元の人と繋がれたら理想だと思いしつこく検索をかけ続けていました。1回のワードで30ページくらい深く深く潜っていきましたが、全然見つかりませんでした。
暇を見つけては検索して潜り、それをひと月くらい続けていたところ、ようやくHIRO建築のページを見つけます。久しぶりに地元の職人さんらしき人のHPでしたが、これまで見てきた膨大な数の中のひとつだろうと、期待はしていませんでした。
しかし。短い言葉の合間に、ポツリポツリと撮られた写真が差し込まれた記事をみていたら、徐々に私の琴線が震える感覚がしてきて、面白そうな人だなと感じました。結果を先に言ってしまいますが、現在、年に数回一緒に飲みに行く様な関係でありながら、年に数回はお仕事の相談もさせてもらっています。
すごく波長の合う人に出会えて、三﨑という場所にも、お店がある事にも、改めて感謝の気持ちがうまれます。
少しずつつくる。
お会いしてお話をして、直感的にお任せしたいと感じたことを覚えています。
HIRO建築の何が、どこが、と聞かれると言葉に詰まります。この場合に限らず、具体的に説明がつかないことは結構ありますが、その場合おおむね良い意味の説明のしにくさだったりします。
それを念頭に置いて尚、あえて言うなら、話していても辛くないとか、リズムや間の心地がいいとか、その程度のことだったりするのかもしれません。
やりたい事や方向性は明確だが、予算が少ないことを素直に打ち明けました。
そんなこと気にしない、という様な感じでした。予算の範囲の中で出来る事をすると言ってくれました。嬉しかったし、頼もしかったです。
商売ですから気にしていないわけはないはずですが、ichiru のオーダーを「安い仕事」か、という感じをおくびにも出さずに話に付き合ってくれるなんて、ありがたい事です。
試着室となる場所だけベニヤを貼りました。電気工事も最小限にやりました。ほんとに、それだけ。
ただ、それだけしかやっていないのに、空間に何か別の気配が芽吹いているような、嬉しい気持ちになった事を覚えています。これはきっと、大工さんの心が空間にあるということなのだと思います。
ラックとして壁にかかる流木を支えるものも作ってもらいました。丁寧な仕事で作られていて、今でも取り付け位置を変え、大切に使っています。
先述したように、スペースを全て使うと来てくれた人に対して満足のいくクオリティを提供できないということは目に見えていましたので、店内を狭く見せるために布で仕切りを作りました。
テーブルの後ろにある布で仕切っています。藍染をする過程の前段階の「すくも」という不安定な状態で染めたウールの生地です。
とても気に入っています。
これを染めてくれたのは、ichiru を始める前に私が3年間農業をしていた時の同僚で、これもまた別の機会にまた書いてみたいと思います。
2019年12月12日、開店。
物件を見つけたのが2017年でした。
そして契約をしたのが2019年の8月頃でした。見つけてすぐに契約の意思は伝えたのですが、2年もかかってしまったのでした。私の意志としては、もちろん早くスタートしたかったのですが、不動産屋と持ち主と借主の事情があって時間がかかりました。
もう契約はできないのかと考えることが増えてきた頃、ようやく話が進んだという感じでした。
そんな中ついにオープンしたところにコロナがきます。
オープンして間もなくは、物珍しさからか、予想以上の来店があり驚かされましたが、2〜3ヶ月後にコロナ禍に突入してからおよそ3年は、地を這うようになんとか歩みを進めていく様な感じでした。
試練が醍醐味
そもそもが高円寺撤退から始まり、そこから第2部 ichiru 編がスタートしますので、順風満帆のわけがありません。
失敗の波に飲み込まれている最中、さらに深いところに潜っていくように人里離れた「やめときなはれ」な場所から歩き始めているので、コロナのような大きな問題がそびえても、良くも悪くもあまり動じないという感じでした。
そういえば、お店のこととは関係がありませんが、初めての交通事故を経験したのもこの時期でした。右折してきた車が、私の乗るバイクめがけて突撃して来るという、右直事故の典型的なものでした。その映像が今も頭の中に残っています。
現場に来た警察の人が、あと少し違う条件が揃っていたら、こうしてお話しできていなかったかもしれません、運が良かったですねと言ったのが印象的でした。
その通りだなと思って聞いていた私は、現場を見ただけでそんな事まで分かるなんて警察官の分析能力は凄まじいレベルなんだなと、じぶんの身体以外のことに想い馳せていたことを覚えています。
5年という年月の中、お店のこと以外にもたくさんのことがありますが、ichiru の事に話を戻します。
2019年が初年度ですが、12月オープンなのですぐに年が変わり2020年となります。コロナが2月〜3月にかけて本格的な広がりを見せてゆき、人が来なくなりました。
人が来ないという中でも、やることはたくさんあります。
古着屋というのはお店に立って営業しているよりも、洗濯したり洋服のメンテナンスをする時間の方が長いので、仕事は欠かさずにしていました。
その時は店内で作業するよりも、2階の事務所で作業している方が効率的でしたので、シャッターを開けることはほとんどなく、準備や雑務をこなしていく日々です。
そして梅雨が来て夏になる頃、恐ろしい事件が起きました。
1階の店舗全てが何か様子がおかしい、何か違和感がある、なんだろうと観察していたら、ありとあらゆるものにカビが生えていたのです。
シャッターを開けたら吹きっさらしの倉庫みたいな場所に洋服が置いてあるというような、必要最低限の状態で始めましたのでエアコンもついていません。
横浜育ちの私は、じぶんの家がカビるなんて経験をしたことがありませんでした。
しかしここは港街・三﨑。冬以外、湿度は常に80%以上だという事に気が付きませんでした。海のそばの湿気はすごいものです。今ではちゃんと湿度・温度計を設置して管理しています。
でも不思議なことに、長年放置されていた建物の梁などは入居する以前からカビていませんでした。
それなのに、私が持ってきた家具は全てカビが生えていましたし、ドライフラワーには花粉の如くカビが積もるように発生していました。
後日、大工さんに雑談としてカビの話をしていたら、よく管理された建築材は可能な限り水分が抜かれているので簡単にはカビが生えないという事を教わりました。
ichiru を構える前にも家を見てもらい相談していたのですが、その時も「これは良い建物です」と言っていて、その本質的な意味を知る事になりました。
細々と他にもハプニングはありますが、キリが無いので大きな事だけ書きたいと思います。
現在「ひみつの小部屋」と名づけて開放しているスペースは、当時壁で仕切られ、店内から行き来ができませんでした。外に勝手口のような別の入り口があり、そこからしか入れない切り分けられた部屋だったのです。
実験的にそこを解放してみたところ、みなさんの反応がよかったので改築する決断をしました。
はじめは実験的に解放していたので、半分くらいしか使っていませんでした。
改築をすると決め、部屋を調べていたところ、床が脆い箇所がある事に気が付きました。
まさか‥と思い床を剥がしてみると、ビンゴ、カビ!!カビで枠材がボロボロ!!というか、土!!土剥き出し?!
コンクリートで土台を固めてから建てないということが、昔の建築にはよくあったそうです。ただでさえ湿度の高い三﨑の街で、土が剥き出していれば木も簡単に腐ります。
この工事をした2023年、2階の軒下に巨大な蜂の巣を発見して、田舎ってすごいなと感心したことも付け加えておきます。軽くぼったくられながら業者さんに取ってもらいました。
5年という節目の2024年。
エンタメというほど昇華できていませんが、他人の不幸は蜜の味というくらいには楽しんでいただけたでしょうか。
永い様で短く、紆余曲折なんとかやってきたというわけでもなく、ただただ楽しくやってこれたのは良い人と出会い良い人に囲まれていたからだと、振り返ると改めて感じました。感謝の気持ちでいっぱいです。
5th アニバーサリーを祝して、上村一夫オフィスさまの許可を得て、大好きな漫画家の原画を展示することもできました。大きな目標を達成したという気持ちも強くありますが、上村先生の名に恥じぬようここからが始まりだ、という気持ちも共にあります。
その時にオリジナル展示グッズとしてMADE IN JAPAN のシルクスカーフをつくりました。自信を持ってお勧めできる素晴らしいアイテムですので、ぜひ買っていただきたいです。
ここまで支えてくださり、応援してくださり、洋服と共に互いの気持ちを交流させてくれた事に、多大なる感謝をお伝えしたいです。何度も何度もお伝えしたい事です。ありがとうございます。
6年目のこれから。
吹き抜けだった入り口には扉が付き、湿度や温度を管理できるエアコンを設置して、倉庫のような別室の壁を抜きコンクリートを流して床を貼り、ichiru 全体がようやくスタートラインに立ったという感じがしています。
洋服屋として「colors for your life 〜生活に彩りを〜」ということばを目印に掲げ、お店に来た事で彩りとなる何かを洋服に添えて持ち帰れるお店であれたら理想です。
それは具体的に何なのかという事を具体的に書ききれないまま ichiru についてで書いています。ぜひ読んでみてください。
5年間の中でも大きめの点の部分だけを振り返ってみましたが、最終回というわけではございません。
まだまだこれからの ichiru の事も楽しみにしていただけたら良いなという願いを込めて、これからのことも少しだけ書いてみようと思います。
2013年頃から洋服が作りたいと思いはじめていました。それと同時に、古着に関わりはじめて数年経ち、洋服のリサイクルについて考えることも増えていました。
何となく皆んな知っていることですが、洋服の廃棄量はとんでもない量です。
私くらいの規模のリサイクルでは雀の涙にも届かない量でしょう。
私が買い付けをしている現場で大量に廃棄された洋服のリサイクル作業を見ていると、新しく作る洋服には価値があるのかという疑問を長年考え、その疑問は年々大きくなっていきました。
新しく洋服を作ることが間違っているのかどうか答えの出ることのない問いをし続けます。
答えは今でも出ていません。しかし最近ひとつの考え方を思いつきました。
それは「永く着れる洋服を作る」という事です。
着続けられる洋服
大量廃棄の大きな要因は流行だと私は思っています。
ファッションということばには流行という意味が含まれていますので、流行自体を否定したいのではありません。古くなってしまったという思い・概念が廃棄のサイクルを早め、それが同時多発的に世界で起こっているのだと思います。
ことばの意味と、人の所作や行動が変化していき、生活の様式が変わり、考え方もそれに合わせた合理的なものになっていったのではないでしょうか。
近年、定番という冠文字をよく見ます。私も定番は大好きです。
デザインのことを語れるほどの者ではありませんが、洋服屋のはしくれとしてずっと関心もあり遠目から見続けてきた世界ですので、定番の凄みというのは感じているつもりです。なので、定番のものが増えるというのは素晴らしいことだと思っています。
私の考える定番とは、普遍的で、丈夫で、万が一壊れてもすぐに買い求められる物です。
しかし昨今の定番と題されたアイテムには定番らしいタフさが備わっていないようにも感じます。定番の中に流行が混じっているような感覚を覚えることがあります。
全体にそういった感覚が広がり、定番がいつもあるずっと使う物ではなく、気軽に買える無難で安いものになっている気がします。
その自問と疑問が重なって、新しい洋服が作られるという事に対する価値観が変化して、私自身がサイクルの内側に参加してみたいと考えるようになっていきました。
現段階で私には定番を作り出すポテンシャルは備わっていません。
でも「永く着れる洋服」は作れる思っています。
捨てられた洋服を素材にして新しく作れば、生まれたばかりのはずのその洋服は既に何年も経っている古い洋服を素に作られたはずなのに、新しさを持った新しく作られたものです。
素材となるものが作られてから10年経っていたら、バトンが渡る事になるのです。新しく作った洋服であるにもかかわらず、すでに10年の歳月存在していたという事になり、更にそこから廃棄される時間が引き継がれ「永く着られる」事になります。
このコンセプトはとても古着屋らしくて良いなと気に入っています。
日本の素材
では、MADE IN JAPAN の古着屋が何を素材にして洋服を作ったら面白いか、考えるのは簡単でした。
着物です。着物のシルクを、アロハシャツにしてみたいと思いました。
アロハシャツの起源は諸説あるのですが、ハワイに移民した日本人が着物をシャツに仕立てたものが広がった、という話が好きです。
実際に着物地を使ったヴィンテージのものも多数確認されているので、全くの出鱈目というわけではないのですが、これが始まりだとは言い切れないようです。数ある諸説のうちの一つの話という扱いのようです。
とはいえ、私が簡単に思いつくくらいなので、このようなアイデアでアロハシャツを作っている人はそれなりにいるようです。でも、ichiru のチャレンジは「永く着れる洋服」を作るという事です。
素材や、過去に人がやった仕事を無駄にせず、価値あるものだということをプロダクトを通して思い出せたならば、過去からの年数も引き継がれた永く残るものになるはずです。
アロハシャツの物語と日本人の感性と ichiru のコンセプトは、とてもシナジーのあることのように感じられます。
この挑戦にぴったりな、印象的な文章をみつけたので引用したいと思います。
音楽家の細野晴臣が言っていたことばです。
自分が編み出したと思っていたリズムも、実は昔からあったもので、
「細野晴臣 分福茶釜」平凡社 細野晴臣著 聞き手・鈴木一郎
そのことがわかったときに、モノづくりっていうのは
何かが自分を通して過去から未来に通っていくだけだ
っていう風に感じたの。
古着というものも、過去に大切にしていた人がいたから残っていて、それがたまたま ichiru に集まっているだけのことです。
ichiru というフィルターを通して別の人に渡るというのは、まさに未来へ通ったということではないでしょうか。偉大なるアーティストもこんなことを想い、考えているなんて驚きましたが、とてもいいなとも思いました。
もうひとつ
アロハシャツとは別に、もうひとつ挑戦したいことがあります。
お土産品を作ってみたいです。もちろん、洋服・古着屋らしいものです。
でも、リーチとしてはそれ以外の方にも喜んでもらえそうなものがいいなという気持ちもあります。お土産って、多くの人に喜ばれるようなものが良いですものね。
三浦市のお隣の横須賀市には刺繍の代表とも言えるようなアイテム、スカジャンがあります。古着のアイテムとしても底堅い人気があります。横須賀ジャンパー、略してスカジャンです。
スカジャンのはじまりは戦後でした。
そのころ、日本には多くの米軍が駐留していて、特に横須賀には大きな基地があったため兵士たちが集まる重要な場所でした。兵士たちが本国に帰る際、日本駐留の記念品を求めて横須賀の職人にオリジナルのジャケットを注文した事がはじまりとされています。
生地の素材には、軍服やパラシュートのシルク素材が使われたそうです。面白いですね。1番初めのオーダー品を見てみたいものです。
この流れは文化の交流であり、とても興味深く面白いのですが、さらに注目すべきは文化の融合です。アメリカの生地に日本の職人が関わる交流がはじまり、そこに日本伝統の刺繍技術が組み合わさりました。
そしてアメリカの伝統的なモチーフであるイーグル・タイガー・ドラゴンと、日本伝統のモチーフである桜・富士山・波模様が刺繍されました。これがスーベニアとして人気となり、50年代には横須賀だけでなく他の基地の近くでも同様のアイテムが作られ、日本全土に広がっていきます。
別のスーベニアで、ベトジャンというものもあります。ベトナムジャンパーで、ベトジャンです。
ベトナム戦争(1955~1975)の時に作られたものです。
これもスカジャン同様、古着のアイテムとして人気の高いものです。
スカジャンとは違った個性を放つベトジャンは、現代の私たちの目からはとても魅力的に見えるファッションアイテムですが、その背景には戦争の過酷さが反映されています。
スカジャンは戦後、アメリカ兵が駐留していた記念を残すために作られましたが、ベトジャンはベトナム戦争中に、戦争中の従軍記念として作られました。一時帰国の際に持ち帰り、仲間や家族への土産物として活用され、戦場の思い出や帰還の証としての役割がありました。
スカジャン同様、ジャンパーに刺繍が施されています。ベトナムにも伝統的な刺繍文化があり現地の仕立て屋がオーダーに応じて一点もののジャケットを作りました。
イーグルやタイガーなどのモチーフも使われることもありましたがスカジャンと一線を画したのは、描かれたことが主に戦地の地図・部隊名・兵士の名前などだった事です。更に、過酷さを反映したメッセージや感情が言葉として刺繍されたりもしています。
このように意味や役割が違えど、古着として時を越えて受け継がれながら残り、概念やデザインが引き継がれて現代のモチーフとして作られ続けているスカジャンとベトジャンは、古着として、ファッションとして、忘れられることのないアイテムとなっています。
古着屋として相乗効果の高い2つのアイテムをモチーフに、三浦を掛け合わせたスーベニアを作りたいと思いました。
知名度の高いスカジャンをつくったら?と言われる事も多いのですが、よくある聞こえの良い地方創生・地産地消のコンセプトのようで、なんだか ichiru とは違うと思いました。
私たちらしく私たちのできる範囲で最大限魅力ある引き立てができる事を考えました。
古着のジップアップジャンパーを集めて、オリジナルデザインの刺繍を施してみたいと思っています。
私たち ichiru がスカジャンとベトジャンから引用したいのは、知名度や形ではなく、歴史的背景と文化の融合と個人の感情です。
三浦という場所で、古着屋として集められる素材で作ったスーベニアジャケットに、スカジャンとベトジャンの魂と人の心を込めた新しい物を持ち帰る事ができたなら、きっと嬉しいはずです。
私はじぶんでとても欲しいと思っています。
最後に。
語りを最小限にしたのですが、お疲れ様です、ここまでの文字数は1万文字をこえています。
何か続きが気になるような事があれば是非ご来店の際にお話しさせていただきます。
5年の歩みとこれからの歩み、どちらも語り尽くせぬものでございます。
そして、解らぬものでもあります。
私が勝手に感じていた5年の視点とはまた違う見方ができる事でしょうし、これからの歩みも今はそう考えていても明日には違うことを言っていたりもします。
あやふやで、不安定で、あぶなっかしい私たち ichiru をこれまで5年も見守り支えてくださり、ありがとうございます。5年も支えてきてくれた方達は、きっと、もう見捨てられないはず。
これからも、はらはらしながら遊びに来てくださいね。
どうぞ6年目の ichiru もよろしくお願いいたします。
またお会いできるのを楽しみにしております。
ではまた。
コメント