感情と洋服

雑記

こんにちは、佐々木拓馬です。私の簡単なプロフィールはこちらから。よろしければご覧ください。

みなさん、洋服ってどうやって選んでますか?

わたしはその時々の気分で好きなものを好きなように選んで、着ています。

洋服に対しての気分。

お店で、クローゼットで、選ぶ、手に取る、着る、良いなと思う、良いなとは思わない、たぶんその他にも沢山ある洋服に対しての気分。この気分とは、じぶんだけの世界であると同時にそれ以外の世界との接点でもある、というような抽象的なところから話はじめていきたいと思います。

本質的な事というのは、抽象的な表現をされることが多いものです。抽象的なことにドキドキワクワク出来るかどうかが本質的な事そのものなのです。

ドキドキワクワク、してますか?

自分の内と外

じぶんの好きなものを好きなように選んで着ているとは言ったものの、その事をよくよく考えて分解してみると、実は自分だけの考えで決まっているとも言い難いような気もします。

洋服を選ぶ時、まず初めに、自分の外側からかなり大きな割合で影響を受けるのが気候でしょう。暖かい、寒い、雨、曇り、晴れ、風のあるなし、ここがスタート地点となり、少しずつ洋服への気分が出来上がってくる。

その次に、その日の予定が頭をよぎるのではなかろうか。晴れで楽しみな予定なのか、楽しみなお出かけが雨なのか、それぞれの事情で気持ちのあり方はかなり違ってくるだろう。

楽しみだろうがそうでなかろうが、良い気分だろうがそうでなかろうがそんな事を積み重ねていくうちに段々とその日のコーディネートが、自分独特の世界観で決まっていくのだと思う。

様々な事を考えている間にも世界は平然とそこにあり、外側の要因と洋服の間に挟まれた自分というものが自分ではないような気がしてきて、稀に、というか結構な確率でちんぷんかんぷんな姿で鏡の前に立ち、あろう事かそのまま玄関を飛び出して後悔するという体験をもっているのは、わたしだけではないはずだ。そう信じたい。

洋服というのは考える必要のない事を考えていくと、自分で選び自分の身体に纏うまとにも関わらず、ある程度自分以外からの要素によって決められていく側面がある。

そこに私たちがルールとして重んじているTPOなどの概念が加わっていくと、自分だけで決めて選んでいる服装ではない、とも言えそうだ。

ちなみにTPOという概念は、VANを創設した石津謙介がうみだした造語だったらしい。それが今や日常に溶け込んでいる。いや、染み込んでいる。どちらでもいいか。

さておき、なんとも不思議な事ではありますが洋服を着るとき、何を着るのか大なり小なり必ず他人の目やフィルターを通して決定される。

過去を振り返ると、洋服という道具を他者への好印象をどう獲得するかという事に長く使ってきた歴史があります。現代でもその文化は少なからず残っているとわたしは思います。

それは良い事なのか、悪い事なのか。どちらでもないというのがわたしの考えです。

着こなすってなんだろう

その日の気分というのは自分の世界観であるにも関わらず、他者の目が強く影響してしまい自分で選んで着た洋服なのに気持ちが入らないという事がある、というのが前段までのまとめです。

しかし話したことに対して元も子もなくなってしまいますが、自分で選び自分で着た洋服には自分が宿るとわたしは思っています。そうは思わなくても、そう考えた方が良いとさえ思っています。

なぜそう思うのかというと、2つ思うところがあるからです。

ひとつは、制服のような型にはめた洋服でも、美しく着こなしている人がいるからだ。華やかな色や柄のない制服のようなものでも、シックという形容では語れない佇まいを表現している人がいる。それは何故なのか。

なんでそういうふうに感じることができるのだろうかと考え続けているテーマだ。その謎が解けかけたような気がした、などという調子のいい話ではない。わからないものは、わからないのです。ごめん

そして、本質みたいなことがあったとしても、掴みきる事など誰にもできない事だとわたしは思う。本質的なこととは自分の内面と向き合うことであり、抽象的な事を考えて自分なりに実行していくプロセスの事だからだ。常に変化していかざるをえないものを、どう捕まえるのだろうか。無理だ。ごめん

掴みきれない、よくわからない事を考えたり実行したりしてなんとか続けていくと、カケラのようなものを見つけることがある。正解のような気もする、なんとも言えないカケラ。

そのカケラが集まってくると、心というものが身体から溢れ出し、その人を纏っていくのではないだろうか。つまらないありふれた言葉だが、洋服を着こなす人というのは心の素敵が見える人なのだと思うのだ。

洋服という舞台装置

心が見えるというのは、もちろん全てをさらけ出しているという事ではない。カケラを多く集めた人が自然に放出しているいわゆるオーラのようなもので、受け手が勝手に感じているものだ。

ひとつの心の見え方として、「やさしい」という状態は分かりやすいのではないだろうか。やさしさというのは、やさしくあろうという事であり、はじめから無意識に200%のやさしさを放出している人などいないはずだ。

そして、やさしさとは、やさしくする対象がいて成立する。

やさしさを基に人と関わる中で右往左往しながらも、それでもやさしくあろうとする人は、次第にそれがその人の養分となり心の形を作り出し、わたしたちにも見える形として自分の身の回りのものに映り込むのではないだろうか。

その表出の場となる心の舞台のひとつが、洋服なのではないだろうか。

心が豊富に投影されるスクリーンが身体そのもののようだ。表情と呼ばれていたり、所作と呼ばれていたり、喋る言葉や声色、肌の張りや艶、身体のいたるところに心の一片が含まれている。

そういった身体的なことに無自覚でいた場合、気持ちが明るく前を向いている状態ならば言うことはないが、ささくれだっていたり落ち込んでいた場合、やさしい素敵な人でいられるだろうか。たぶん、むつかしい。わたしは無理だ。

やはり普段からやさしくあろうとする気持ちのあり方が、どんな時もその人を素敵な人に押し上げているという事は疑いようのない事実ではないか。そんな人にたくさん会った事があるから、そう思う。

もうひとつの理由

自分で選び自分で着た洋服には自分が宿るとわたしは思う、という理由を何でもない制服を着こなす人がいるからだと解説しました。最後に、もうひとつあると言った理由をお聞きください。ここまできたらもう少しです。

自分で選び自分で着ようとした人は、その洋服に観客をつけていない。そういう人は、どんなにシンプルであろうがなんだろうが、洋服に自分が宿っています。

簡単に言ってしまえば、見せびらかせる洋服ではないということです。高級なブランドの洋服をステータスとして着ている人は、誰かに見てほしいと思っています。つまり、観客をつけようとしています。洋服という道具を使って自分の観客となってほしいのです。

観客をつけず、自分で欲しいと思いその洋服を着ている人は、意志のある人だと言えそうです。洋服に自分のその心が乗っかっている人、その状態の事をスタイルの良いスタイルのある人だと表現するのではないでしょうか。

そしてそれは、一般的な美しさとは関係を持たずして美しき人です

何かを基準に選ばれる美しさとは、ヴィジュアルの良さが多くをしめます。これも確かに美しさの一面でもあるけれど、ヴィジュアルの良さというのはその人の才能でもある。才能を基準に美しさは選定できないというのがわたしの持論です。

洋服を着る時には他者の目がどうしても入ってきてしまうという前提がありつつも、その洋服の見え方にはもう一層のポイント、目には見えないけれどもその人の心という衣を纏っているのです。それが洋服の本質的な美しさであり、楽しみなのだと思います。

素敵な人というのは、社会性と自分の感情との間に、心を表出させるツールを挟み込みコミュニケーションを上手に取れる人だとも言えそうです。それがこの場合洋服に限って話をすすめている。

自分と他者との距離感を心地よく保てなければ、どんなに着飾っていたとしても本当のところでは相手から素敵とは思われないからです。

そして洋服というのは、そういう素敵な人になるためのひとつのピースとして、誰もが自由に使うことのできる道具であり、相棒でもある。接し方、使い方で自分なりの何かになりうるものである。

かつてわたしは、手帳というもののコピーライティングを考えてみたことがありました。「わたしより わたしらしい わたしの手帳」、この手帳の部分は、洋服でも良さそうです。

このコピーは足りない視点が沢山あり恥ずかしい内容なのですが、今回の話と通じることがありそうだと、急に思い出しました。

わたしも素敵な人間にはまだまだ遠い未熟な人間です。

こんな事を考えながら洋服を選び、言葉を選び、何かに少しでもやさしさを与えられるような素敵な人になっていきたいなと思う。

未熟なわたしには、正解など示せない。結論などもちろんない。

これをここまで読んできて何某かのことを感じたりしたあなたは、本質的な人であり、実行できる素敵な人であるに違いない。

明日からは裸で出掛けるのはやめよう。

きっとこれが冗談ではなく、比喩だと分かる人のはずである。

ではまた。

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