凄まじかった。
海南神社 夏の例大祭のことであります。
私は迫力のある祭りというものを見た事がありませんでした。
文字や人伝に見たり聞いたり「すごい祭り」を体験した人たちが伝える熱量は知っています。
しかしそれはただの情報で、正直なところ、アツくてクドくて聞いていられません。
そういった「すごい祭り」の話を聞いて、私の心が何かを感じて興奮したり感動したりすることはありませんでした。
私の地元が横浜の繁華街だったこともあり、身近に祭りを体験できる環境だったということも影響しているのかもしれません。
とは言っても、祭りが好きな同級生はいましたので、私が祭りというものに積極的ではない属性であることは間違いありません。
そんな私がなぜ三崎の祭りに鑑賞者として参加したのでしょうか。
力也さんと新城さん、素敵な二人に誘われたのであります。力也さんは美容室を、新城さんはシェアオフィス&カフェを、共に三浦海岸で経営されています。
祭りに積極的ではない私が尊敬する人に誘われたから参加して、感動までして、文章を書いています。
この文章も、当時の私のような人からしたら何の意味もない個人の価値観・感想に過ぎないことでしょう。しかし、本気で書いておきたい。
祭りに関わったすべての人たちの気持ちに少しでも何かを添えられたら、それはまた来年以降の祭りに良い影響があるかもしれない、と思うからです。
感動する体験というのは、言葉を超えて、じぶんをも超えていきます。
文章では伝わらないと思いながらも文章を書いていきます。
そのよくわからない気持ちの中に祭りのイズムが混じっていくかもしれないという期待をうっすらと持ちながら、書いていきます。
例大祭
私のような門外漢にとって、祭りというものが何なのかということが、まず、定かではありません。
祭りの意味や語源には、やっぱり諸説あるようです。
【お供え物を神に献供するなど、神に対して奉ることに「祭る」の字を当てた】という説。
【マツリは「待つ」を語源とした言葉で、神を饗応してその招来を待つ】という説。
マツリをラ行四段活用し、その未然形に断続を表す「フ」語尾を付けると、物品を献上し続け服従するという意味の「服う」となることから神に対して服従することを語源とする〜〜っだいぶ何言ってるかわかりません。
神様、ラ行四段活用って何ですか。
「服」ってそんな意味も持ってるのかと驚きました。
で、その祭の古語に祭祀という言葉があります。
その祭祀というのは伊勢神宮に属する諸々の神社で、天下泰平・五穀豊穣・皇室の安泰・万民の平安が祈られる為に行われているそうです。
その祭祀の中でも年に一度の大祭のことを例祭と言うようです。
今回の記事の本丸、例大祭ということばに、ようやく辿り着きました。
例祭という名称が使われ始めたのは近世のようです。以前は大祭、御祭りと言われていたようです。
いつの頃からか、神社を代表する重要な祭りを例祭と呼ぶことになっていったそうです。
その名残で、海南神社のように「例大祭」と混ざった名称の場合もあるそうで、大事に想い大切に考えているんだなということは伝わってきます。
海南神社 夏例大祭
なんとなく、祭という成り立ちが分かってきました。
分かっていく中で気になったのは、今のようなテンションで祭りを鑑賞したり、祭りをプレイしたりしていたのだろうかという疑問です。
神仏習合があり、神社仏閣がそれぞれに格付けされて宗教が大変な力を持っていた当時のことを考えると、今のようなスタイルではないような気がするのは私だけでしょうか。
ワッショイ的なことを言ったりしたらブチ56されそうです。
明らかに神道の世界観で、神様への貢献具合を表現しているのが祭りであるように思えます。
もっと厳かで厳格で静かなものだったのでしょうか。どうなのでしょう。とても気になります。
三崎に戻りましょう。
海南神社の夏例大祭とはどういったものなのでしょうか。
江戸時代から挙行されてきた祭礼で、130年の歴史があるそうです。私の率直な感想は、そんなに古いものでもないのか〜、です。
江戸時代発生年は1603年、終了年は1868年です。
1603年からだと420年の歴史になりインパクトがありますが、海南神社の夏例大祭は江戸後期からの祭りということになります。
それでも江戸時代終了年から計算しても155年立ってますから、海南神社のホームページから引用した130年の歴史という表記は20年以上前に書かれたものだということになります。
古着の世界でよく使われるヴィンテージということばがありますが、定義としては100年以下のものを指しています。
アンティークと言われるものは100年以上経っているものを指します。
ことばでそういう違いがあるのですが、100年以上の歴史のある海南神社の夏例大祭はアンティーク祭りということです。
そんな歴史ある海南神社夏例大祭で伝承されてきた特徴的な3つのことがあるそうです。
- 行道(お練り)
- 祭礼輪番制度(年番)
- 木遣り唄での神輿渡御、獅子行道、山車巡行
簡単に言いますと、年番という担当入替制度でメインの町内が年毎に変わり、メインの町内は神輿を神社に帰す重要な役を担い、それぞれの町内でお練りといういわゆるセイヤセイヤワッショイワッショイを行うという感じです。
町内を渡御する形になったのは明治中期からのようです。
どのような形だったのか分かりませんが、
以前は海上神事だったようです。
海の上で何かをやるのでしょうか。
気になります。
町内渡御の形になった今の祭りの内容を、もう少し詳しく書いてみたいと思います。
お練り・年番・木遣り唄
通称・お練りと言われる「行道獅子」を先導にして、神輿や山車が下町一帯を2日かけて巡行します。
雄雌2頭の獅子が神輿と共に木遣師の唄に受け声を出しながら練り歩くことで災いを祓い、家内安全や商売繁盛を願う、というのがお祭りの意味となります。
開催日もしっかりと設定されています。7月の海の記念日前の土曜日曜の2日間です。こちらもおそらくは明治中期以降に決められたことなのだと予測ができます。
今更ですが、ここまで文字を重ねてくると、プレイヤーとしての祭り好きな人はもう読んでないかもしれません。
じれったすぎますものね。
お待たせしました。そう、お待たせしました。
この記事が「凄まじい」ということばから始まったことなど、もうお忘れでしょう。
その凄まじさが、神輿を神社に帰すところです。ことばにすると物足りないものです。
その、神社に入る手前が、迫力ある例大祭最大のピークポイントです。
そして、プレーヤーにとっては、とてもしんどい辛さMAXピークポイントであると同時に、お楽しみの場所でもあるのかもしれません。
所狭しと、熱気を浴びたい観客と水を浴びたいプレーヤーがひと所に集まっています。
私の記事のように、前に進んだと思ったら後ろに下がりまた前に進んで後退する、という事をかなり長いこと繰り返していました。
木遣師の唄は良いリズムと年季の入った声質とが相まってとても心地がいいのですが、辛い顔をしている若者を見ているとなんなのだこの洗礼はと思いました。
流れた汗の落ちたところが道になっていくかのように、行ったり来たりを繰り返します。
見せてくれているのか、見させられているのか、意味があるのかないのか。
何も分かりません。
観ているうちに、なにも分からなくなってしまいました。
しかしそもそも祭りというものがよく分からないエネルギーの塊のようなものです。
考えるより感じろ、わかりっこない、ということなのでしょう。
次への出発
人の塊が獅子そのもののように動き回り、ついに鳥居を潜った時には大きな大きな拍手喝采が起こりました。
私は思い、感じました。
これが祭りか。
準備を一年中積み重ね、辛い顔と険しい顔と笑顔とを行ったり来たりしながら太鼓を打ち大きな声で叫び、側から見たらよくわからないことをとんでもない熱気で行い、完了させる。
そのゴールすらも、ほんとうは、よくわからないものだけれど、ゴールを目指す。
なんだかよくわからないままに、参加したかのように心が動く感覚を持ちました。
烈しい動きと流れがうみだされる一方で、優しくしっとりとした静けさがうみだされていたことも印象的でした。
内と外、見ているものとプレイヤーとの間だけではなく、渦中にも静があったのが、私は面白いと感じました。
この夜を越えた次の日の朝の挨拶には、参加した全ての人の胸の奥に誇らしさが混じっているのではないだろうか。
そう想像する私の心にも、不思議と誇らしさが分け与えられていました。
来年もまたこの祭りを見たいと心から思いました。
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