ichiruのB面
vol. 三輪次郎

この人の言ったことは信じてみよう、そう思える人物はそれぞれの場所に必ずいるものだ。
私にとって三輪二郎というアーティストは、音楽において信じたくなる人である。
2008年から音楽活動を始めた三輪は、2025年で活動17年目となる。
私が始めて三輪二郎を観たのが2011年だった。
いつもの楽しみのひとつとしてライブ会場に足を運んだ記憶がある。特別に出演アーティストに意識を向けていたわけでもなかった。彼のパフォーマンスを観て、とても良いなと思った。
こういう物語のお決まりの型として「衝撃を受ける」というのがあるが、私は三輪二郎からそれを受け取らなかった。
しかし計り知れない感動をして、昂揚していた感覚を忘れた事がない。
私自身が「衝撃を受ける」という体験をしたという心当たりはあるが、それとは全く違う感情の揺れを三輪二郎を観て経験したのだ。これがどういうものなのか、その時はあまり掴めていなかったと思う。
その後、彼のライブに沢山行ったわけではないが、今に至るまで機会があれば足を運んでいる。
▼ 三輪二郎 グッドラック・ブギー

私は影響の輪を見つけるのが好きだ。
作品の中に含まれるオマージュなどの引用元を紐解いて辿っていくと、その作品の文脈を掘り当てたような、作品を理解できたような気にさせてくれる。
これまでに三輪二郎がインタビューを受けている記事を読んだり、ライブ会場でひと言ふた言話をしたりして、彼が何に影響を受けてきたかの一端を知っていく。そしてそれらを逃さずに聴いていった。
それぞれに良い音楽で、ずっと聴き続けているものもある。しかしその全てに、三輪二郎の影を感じることができなかった。
三輪二郎だけではなく、稀に影響元を当たってもその心に触れられない事がある。これは「衝撃を受ける」という良さの感じ方ではない感情の揺れ方が関係していそうだ。それだけのことではないとは思うが。
「衝撃を受ける」という感じ方は、インパクトの強いものを一気に受け取れるという分かりやすさがある。それとは違い私が三輪二郎に感じた良さのように、染み込むようにゆっくりと、永く受け取り続ける場合もある。
この、ゆっくり受け取るようなケースの場合、ひとつの強いメッセージや個性だけではない、その人が纏っているあらゆるものを受け取っているから、一気に受け取る事ができないのではないだろうか。複雑に発散されているのだ。
こんなことを言っていると難しい響きとなり、誤解が生まれそうだ。
勘違いしてほしくないのは、三輪二郎の音楽は明快だという事だ。
ロックでありブルースであり、ファンクしてソウルフルで、ポップスでもある。しかし、そんなカテゴリーは無意味だ。そういう側面があるということにしか過ぎない。
そうだ、三輪二郎に当てはまることばがあまりにも少ない。全て「そういう側面」になってしまう。
私が当時経験した衝撃とは違う感情の揺れというのは、この通り今でも理解できているとは言い難い。
彼の生き様そのものが声という形に乗って、情緒や憂い、反骨の先にある悲しみとなって、私に影響を与え続けている。
私の書いている三輪二郎なんて、三輪二郎ではない。音楽人をことばだけで伝えるなんて事はできるはずもない無謀なことだ。
でも私は書いている。この文章が、三輪二郎を知らなかった人の興味となり、三輪二郎の音楽に触れる人が1人でも増えたならと、書いている。
聴いてほしい。
誰かに簡単に天才と称されるその前に。
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