こんにちは。佐々木拓馬です。私の簡単なプロフィールはこちら。よろしければご覧ください。
2023年 3月10日 〜 3月27日 まで nostos books で開催されていた上村一夫の原画展を見に行ってきた感想をお伝えしたいと思います。
随分と時間が経っているじゃないか、というクレームはなんの効果も発揮しません。上村一夫に関するものは、その著作物と同じように、もれなく普遍性を携えます。
なぜか。それは私がファンだからである。その激る熱で書くから、感想文ですら普遍化されてしまうのです。いや、違う。ごめんなさい。上村一夫の絵を前にして、圧倒的なエネルギーにあらゆるものが飲み込めれていくようなイメージだ。
もうひとつ。その時数量限定で販売されていたポスターが、購入した人たちの手元に届き始めたらしいことを、Twitterで知ったのでいいタイミングだとも言えるではないか。そういう計算もある。
というかそもそもこのブログを熱心に読んでくれている人は、ichiruのファンであり、ササキタクマのファンであるはずなのでクレームをブロックするような文を書く意味がないことに気がつきましたので感想に移っていきたいと思います。
上村一夫は最高なのです。大好きなのです。そんな人の絵の感想など、すぐには書けないのです。
広々とした空間に、厳選された原画がぎゅっと展示されていました。久しぶりに上村一夫の原画が目に入り、ぼくは何故か、関係のない本を見始めます。
本屋さんなので関係なくはありませんし、とてもいい本が一定の審美眼でセレクトされているので、見応えはすごいのです。しかし、私は原画を見にはるばると来たのです。それなのになぜ、じぶんでも、不思議でした。
時間が経ち改めて振り返ってみると、心の準備ができていなくて逃げてしまったのだと思いました。それほどまでにエネルギーが充満しておりました。
上村一夫オフィシャルのTwitterより引用します。
今回はあえてのキャプションなしです。「同棲時代」「修羅雪姫」「しなの川」「狂人関係」をランダムに配置しています。生原稿から何か感じてまた読みたくなるような、読んでみたくなるような展示になればと思っています。
https://twitter.com/migiwakamimura
見る前に感じてしまった。とんでもないことである。
そして、名文であります。全ての意思と意気込みが伝わってきます。
上村一夫先生は当時隆盛を極めていた劇画というスタイルでカテゴライズされることを快く思っていないような発言をされていたり、劇画という言葉をわざわざ漫画と言い直したりするなど、漫画という根っこの表現への想いを感じます。
劇画というのはひと言でいうと、写実的な表現で現実的なモチーフを主眼としている作品です。
上村一夫のいちファンとして率直に感じることは、その枠に留まることのできないエネルギーが溌剌と感じる事ができるので、現在の「MANGA」という広い意味の言葉での評価の方が地に足がつくという感じがします。
漫画家として高い評価を得て、今なお評価され続けている上村作品。
漫画家とは別に昭和の絵師と呼ばれる側面もあり、一枚の絵そのものを評価されることもたくさんあります。昭和の絵師という表現・評価には、作中の中のひとコマをおもむろに抜き取っても絵として成立するという意味も込められている、と勝手に解釈しています。
簡単に言いましたが、それはとんでもないことなのです。
twitter で感想を見ていると、多くの人が「美しい」と表現しています。
漫画作品で主に描かれているのは女性が多く、美しいと言われる所以でもあります。
しかし表面から感じる美しさの奥には、深淵なる上村一夫の世界が広がっています。
そして、主観ではありますが申し上げておきたい。その美しさというのは外見の美しさではないということを。これは漫画を読めば明らかになります。
人間の魅力というものは、それぞれ多種多様にあるものです。測りで比べて比較のできないものではあるものの、突出して人の目を惹きつける人物がいたりもします。その差とはなんなのでしょうか。
ひとつには生き様というものがつくりだす心の形が与える印象なのだと思います。
誤解を恐れずに言うと、上村作品には物語があまりありません。物語というと冒険や未知との遭遇、そこから広がる知らない世界、戦いなどが物語と聞いて想像することでしょう。もちろん、そう言ったことが上村作品に全くないということではありませんが、強調したいことは別の物語が中心となって話が進んでいくということです。それは何か。
お察しの通り、人間個人が持っている物語です。言葉として先に出していた、生き様という物語が中心になっています。人間の人生を見せられるから、絵の中の人物が立体的になり美しさを纏っていくのだと思います。
綺麗とは、別のことなのです。全ての人が綺麗ではなく、美しい人なのだと思います。
表面だけがピカピカとした綺麗さではなく、善も悪も良いも悪いも全てがある上で、それでも自分という物語を生きていこうとする人が美しい人であり、上村作品に登場する人物は多くの人に美しさを共有させるエネルギーがあるのです。
「風狂の人」というタイトルを掲げた展示ですが、風狂という言葉に聞き馴染みのなかった私は、野暮ではありますが意味を調べてしまいまいました。
めちゃくちゃ難しいことがたくさん出てきて嗚咽しました。
意味って、調べたら簡単に説明した一言のやつ出てくると思うじゃないですか。風狂に対する思い入れの強い人多すぎでしょ。ひと言でいこう、ひと言で。
常軌を逸していること、また、その人。という意味のようです。熱く説明を書いていた人も絶対に含んでほしいと願っています。
私も洋服CLUBなどというぬるいタイトルをやめて、風狂CLUBにした方が良さそうだな、とは思いました。
展示されているのは漫画作品の原画です。その漫画のタイトルはオフィシャルアカウントの引用にもあった通り、しなの川、修羅雪姫、同棲時代、狂人関係です。
代表する素晴らしい4作品です。でも、完全にどうかしている人が出てきます。常軌を逸していると言わざるを得ません。この場合、褒め言葉に他なりませんということを追記しておきます。
作品のあらすじなどは記事冒頭のオフィシャルサイトのリンクからご覧ください。
漫画をぜひ読んでもらいたい。殴られたような衝撃という表現がありますが、私は10tトラックに引かれたような衝撃を受けました。どんな衝撃かは分かりません。私は生きています。引かれてはいないのです。
でも、わかるでしょう。殴られたような、優しい衝撃ではありませんでした。なにかとんでもなく大きなものに当てられたという気がしたことは覚えています。
私が展示を見た後の、私自身の感想ツイートを引用します。
ノストスブックスの中に添えられ馴染む花のような上村一夫先生の原画を見ているとページの一部に入りこむと共に私も風狂の一部として溶け込んでしまった感じがした。風狂という言葉を一番纏っていたのは修羅でも雪絵でもなく、日常の中に潜む今日子であった。上村一夫作品はやっぱり最高です。
https://twitter.com/takumakumayakom/status/1640520126834565120
同棲時代に出てくる今日子さん。ケープを纏い、狂気をはらむ今日子さん。私は風狂の人という展示の中で、この原画に1番惹かれました。
知っているはずの1コマが、どう抜き取るかで全く違う印象となります。毎回、上村一夫の原画展では知っているシーンに新しさを見つけられる、という体験ができます。
この文章を書きながら、作品を読みなおしていました。作品のあとがきで、盟友・阿久悠が上村一夫を語る一節にうなずきうなずき、うなずきすぎて首が痛くなりました。
上村一夫の劇画は動かない。全てがストップモーションである。いや、主人公が動きをとめたということではなく、作者が、主人公から前後の時間を切りとったといった方がいいだろう。ストップモーションは、おおむね人間の危機的瞬間を露出して見せる。それが限りなく残酷で、美しく、又、エロティックな世界をつくり出しているのである。
修羅雪姫 2巻 秋田文庫版 あとがき「上村一夫の世界」より引用
動いたことにならないということを、上村一夫は当初から知っていたようである。
修羅雪姫 2巻 秋田文庫版 あとがき「上村一夫の世界」より引用
グッときます。グッとこない人は、ぜひ漫画を読んでみてほしい。
劇画を描きはじめたばかりの頃、彼はさかんにいったものである。「劇画というのはね。阿久さん。コクンとうなずくというのが描けないんですよ。」2コマをつなげば、コクンとうなずいたように見せることは出来る。しかし、コクンとうなずく速度を伝えることは出来ないということである。その速度によって、人生を肯定しているのか否定しているのかという機微を伝えることが出来ないということである。
修羅雪姫 2巻 秋田文庫版 あとがき「上村一夫の世界」より引用
な、なるほど。天才か。しかし、私には登場人物が生き生きと生々しく感じられるからこそ、読むのが辛かったり感動したりもします。その魅力とはなんなのか。
上村一夫は、劇画家としての出発点から、擬似映画としての劇画を否定していたのである。連結する時間を拒絶し、じかんを抽出することに劇画としての意味を認めたようである。上村一夫の劇画は動かない。だからこそ、その奥に多くの世界を持っているということが出来る。しみじみと思うのである。上村一夫は詩人だなあと。詩人であるからこそ、動かせることを拒否できるのだなとあらためて納得したりするのである。
修羅雪姫 2巻 秋田文庫版 あとがき「上村一夫の世界」より引用
じぶんの感受性とはなんなのかと、呆然とするような、圧倒的な感受性で上村作品を解説しています。否定とは、表現する領域において、ある固定された視点を否定して、別の角度から展開させていくということなのか!と、また首が痛くなりました。
落語とは人間の業の肯定だ、と言ったのは立川談志師匠でした。知ったようなことを言うようですが、上村一夫も業を描いた表現者であったと思うのです。つまり、肯定していたのだと思います。
善も悪も人間そのものを物語として、情緒豊かに描いた漫画家であります。
最後に、上村が阿久悠に情緒というか、心の動きについて触れた一節をシェアして終わりたいと思います。
少々酔いのまわって来た上村一夫がこういう。「抒情ってのは助平ですよ」「そうだ。抒情ってのは助平だ」
修羅雪姫 2巻 秋田文庫版 あとがき「上村一夫の世界」より引用
なんでやねん!
ではまた。
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